オリジナリティなき創造について 

星野源『創造』


♨️いや~、これ凄かったですよね......

youtu.be


👼星野源『創造』ですね。「スーパーマリオブラザーズ」の35周年に合わせたタイアップソングであり、まさに星野源の創造力がいかんなく発揮された素晴らしい楽曲です。彼の思想が伺える歌詞にも注目が集まっていましたね。


♨️本作の 歌詞の全文は本人の公式ホームページから読むことができますが、今回とくに注目したいのは以下の部分です。

何か創り出そうぜ 非常識の提案
誰もいない場所から 直接に
独(いち)を創り出そうぜ そうさYELLOW MAGIC
色褪せぬ 遊びを繰り返して

まずこの歌詞からはっきりとわかるのは、0から1を産み出すのが星野のいう「創造」観なのだということです。


👼「独(いち)を創り出そうぜ」という歌詞の「独」というワードは、「任天堂の第3代社長・山内溥氏が任天堂の目指すべき道として掲げた言葉」である「独創」からとられたものであるんですよね。

www.famitsu.com

リンク先の記事にもあるように、本作の歌詞には他にも色々と「任天堂への無数のオマージュ」が散りばめられています。


♨️そんな任天堂へのリスペクトについては、こちらのインタビューで熱く語っているのを読むことができます。

www.cinra.net

ゲーム機を作るいろんな会社が技術の発展に従ってハイスペックなものを目指すなかで、任天堂はそういう要素も持ちながら、同時に、任天堂にしか持てない視点とアイデアを持って、誰も到達できない、任天堂にしか行けない場所に常に行こうとしてきた。そういうところが、すごくかっこいいなと思います。


👼任天堂だけがもつ独自性に自分の「ものづくり」への姿勢を重ね合わせてるんですね。


♨️また、本作では様々な箇所で『マリオ』シリーズのSE(効果音)が使用されているのですが、なんとそれらはサンプリングされたものではなくいちいち実際にアナログシンセで演奏して再現したうえで使われています。


👼すごすぎる...


♨️なんでわざわざそんな大変なことをしたのかについて、星野は上のインタビューのなかでつぎのように語っています。

ただ持ってきたものを並べるのではなく、キーや音程も含めてしっかり曲に組み込まれてなければいけないと思いましたし、ちゃんと血肉として曲にしたかったので、弾き直しました。こういったことを、公式に全力でできるのが楽しかったですね。なかなかできることではないので(笑)。

これって言い換えると血肉(=創造)にするには自分らの身体で弾かないといけないし、「ただ持ってきたものを並べる」(=サンプリング)だけでは血肉(=創造)にはならないんだということになりますよね。


👼はい。


♨️つうわけで今回のタイトルこれじゃ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


👼テンションどうしたんすか...


 

 

 

オリジナリティなき創造について


♨️はい、今回はそういったものとはまた別の創造について考えていく回にしたいと思います。


👼なんかまた壮大なタイトルですねえ...


♨️えー、まず先ほどの星野源の「創造」観ですが、ひとことで「オリジナリティ」という言葉で表せると思います。美術館・アート情報のWebマガジンartscapeによる「オリジナリティ」の解説を以下に短く引用します。

オリジナリティ | 現代美術用語辞典ver.2.0

個人の制作物をそのほかの類似品から区別する真性性を重視し、芸術家の制作を自律的で根源的な意味性の発生源、すなわち価値の源泉であるとする考え方。芸術が個人の手になる唯一的で一回的な生産であることを暗黙裡に求め、芸術家の創造性や固有性が細部に至るまで芸術作品に反映されているとされるような価値観のことである。


👼そうした価値観と似てるところでは、以前YUKEMURI LABでも「パッケージング」という言葉を用いて取り扱ったことがありましたよね。

ngo750750750.hatenadiary.jp


♨️そしてつぎに出した記事では、シティ・ポップにまつわる問題を例に出しつつ音楽においては「イーミック(emic、文化内在的)な部分だけをエティック(etic、文化外在的)な部分から切り分けて楽しむことが原理的にできない」ということを説明したうえで、「音楽の本質とその根本的な意味とは、対象、すなわち音楽作品のなかにあるのではまったくなく、人びとの行為の方にある。」という「ミュージッキング」って概念を紹介しました。

ngo750750750.hatenadiary.jp


👼「ミュージッキング」という言葉を使うことで、音楽作品だけではなく、作品も含めた様々な一連の行為がひとつの音楽パフォーマンスを形づくるんだ、ということに目を向けられるようになったんでしたね。


♨️でもそういうことって作品だけに注目した場合には不可視になってしまうんですよね。そんなときに「ミュージッキング」という概念を用いることでもっと音楽の豊かさに触れられるんじゃないの!?というのが前回までのおさらいでした。


 

 

 

ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』


♨️さて、いまちょうど「不可視」という言葉を使いましたが、もっぱら「消費者」とされてしまっている民衆が、実際にはどのような「製作」をおこなっているのか。こうした「ひっそりと声もたてず、なかば不可視のもの」(p.19)である民衆の日常的実践について研究した書籍がこちらです。

www.chikumashobo.co.jp


👼お、ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』ですか。今年になって待望だった文庫化がされ大きな話題にもなっていましたよね。


♨️紹介文にもあるように、本書では一貫して民衆が「なんとかやっていく」日常的実践に光が当てられているのですが、著者のセルトーはそうした実践について「戦略」と「戦術」という区分を用いて説明しています。少し長くなりますが以下に引用します。(p.119~p.123)

わたしが戦略とよぶのは、ある意志と権力の主体(企業、軍隊、都市、学術制度など)が周囲から独立してはじめて可能になる力関係の計算(または操作)のことである。こうした戦略が前提にしているのは、自分のもの〔固有のもの〕として境界線をひくことができ、標的とか脅威とかいった外部(客や競争相手、敵、都市周辺の田舎、研究の目標や対象、等々)との関係を管理するための基地にできるような、ある一定の場所である。

(中略)

わたしが戦術とよぶのは、自分のもの〔固有のもの〕をもたないことを特徴とする、計算された行動のことである。ここからが外部と決定できるような境界づけなどまったくできないわけだから、戦術には自律の条件がそなわっていない。戦術にそなわる場所はもっぱら他者の場所だけである。したがって戦術は、自分にとって疎遠な力が決定した法によって編成された土地、他から押しつけられた土地のうえでなんとかやっていかざるをえない。戦術には、身をひき、先を見越しつつ、身構えながら、自分で依って立つということができないのである。それは、フォン・ビューローが語っていたように、「敵の視界内での」動きであり、敵によって管理されている空間内での動きである。(中略) 一瞬さしだされた可能性をのがさずつかむためには、時のいたずらに従わねばならない。所有者の権力の監視のもとにおかれながら、なにかの情況が隙をあたえてくれたら、ここぞとばかり、すかさず利用するのである。戦術は密漁をやるのだ。意表をつくのである。ここと思えばまたあちらという具合にやってゆく。戦術とは奇略である。

要するに、それは弱者の技なのだ。

(中略)

その技はかけ離れた要素でも大胆に組み合わせ、言語というひとつの場のなかで何か別の断片をさしはさんで相手をはっとさせるのだ。それは、システムの碁盤目をよぎってゆくゼブラ模様であり、飛び散る破片であり、一瞬はしる亀裂、あざやかな独創である。消費者たちのもののやりかたは、機知を実践におきかえたその等価物なのである。


👼ここにも「独創」という言葉が出てきましたね。


♨️そうですね。ちょうどいいのでここで最初の星野源『創造』の話とつなげると、星野や任天堂のような血肉(=自分のもの)を前提とした独創のあり方は「戦略」的であるといえるし、逆に曲を聴いたりゲームをプレイしたりする側には「戦術」的な独創があるんだといえるはずです。


👼それが「消費者」側の独創なのだと。


♨️ちなみに最近だと千鳥がやってるテレビ番組ってそういった日常的実践の独創性にめざとく光を当てたものが多い気がします。その目の付け所の鋭さが千鳥の面白さの核なのかもしれません。

www.asahi.co.jp

dogatch.jp


👼テレビ千鳥の『一周だけバイキング』はわたしも爆笑しながら見ましたね...


 

 

 

 

中沢新一『ゲームフリークはバグと戯れる―ビデオゲーム「ゼビウス」論』


♨️そんな素晴らしい本を書いたミシェル・ド・セルトーですが、もしまだ現代に生きていたら100%注目したであろうものが「デジタルゲーム」です。


👼確信なんだ...


♨️というわけで、つぎに紹介するのは日本における最初期のデジタルゲーム論の名作といわれるこちらです。

www.amazon.co.jp


👼雪片曲線論のなかに収められている中沢新一『ゲームフリークはバグと戯れる―ビデオゲーム「ゼビウス」論』ですね。元々は1984年6月号の現代思想に寄稿された文章で、元祖縦スクロールシューティングゲームの「ゼビウス」がもつ革新性についてバグを楽しむゲームフリークたちに注目しながら論じています。

ソルバルウ


♨️以下重要箇所を引用します。(p.201~p.203,現代思想)

新しい世代のゲームフリークたちは、『ゼビウス』という傑作をとおして、これまであまり前例がなかったようなビデオゲームの新しい楽しみ方を発見しつつあるのだ。ひととおり高得点をあげることができるようになった子供たちの「敵」は、もはやゼビウス軍ではなくなる。新しいゲームフリークたちの次なる闘いは、このビデオゲームをなりたたせているコンピュータ・プログラムそのものとの間に、くりひろげられることになる。すなわち、「隠れキャラクター」の発見、プログラム中のバグ(虫)やCPU間のデータ転送のプロセスでときたま発生する「怪現象」や「珍現象」の発見などに、ゲームフリークたちの関心はうつってきたのだ。

(中略)

プログラム中に発見されるバグのいくつかをそのまま残したこと(メーカーは新製品のテストに半年から一年をかけてテストプレイをくりかえすので、そのようなバグの存在が気づかれないということはありえない)。ハードウェアにソフトが重圧を加えることによって予期しない「怪現象」が発生する可能性をそのまま温存したこと。『ゼビウス』はまさにこれらの点において、これまでのゲーム・マシンになかった可能性の領域を開いてみせたのである。


👼普通デジタルゲームをプレイするというと与えられた「ルール」や「物語」のなかで楽しむものだと考えがちですが、このころからすでにバグを楽しむような特殊な土壌がつくられていたんですよね。


♨️ぼくは「プログラム中に発見されるバグのいくつかをそのまま残した」という指摘が重要な気がしていて、要するにそれってゲーム開発者がゲームをつくる段階から、すでに自分たちの意図をこえてゲームを楽しむ存在としてゲーマーを意識していたということですよね。これが例えば本だったら読者に誤読される前提で文章を書く人なんていないわけで、デジタルゲーム特有の面白さのひとつだと思います。


 

 

 

ポケットモンスター ゲームを遊ぶ(play games)/ゲームで遊ぶ(play with games)


♨️さて、ここまで1984年時点での話題でしたが、現代ではゲームとゲームプレイを取り巻く関係はより複雑で面白いものになってきていると思います。そこらへんのことを掘り下げるためにこちらの書籍を紹介します。

genron.co.jp


👼『ゲンロン8 特集:ゲームの時代』ですね。「ゲームという新しい技術あるいはメディアは、いかに21世紀を生きるわたしたちの生と認識を規定しているのか。その連関を探る、ゲンロン史上最大の大型特集!」とリンク先の紹介文には書かれています。


♨️なかでも今回取り上げたいのは、p.76からはじまる吉田寛『メタゲーム的リアリズム―批評的プラットフォームとしてのデジタルゲーム』のなかのある一節です。以下に引用します。(P.87)

遊んでいるうちにゲームのなかで新たなルールや遊び方が作られ、いつの間にか別のゲームが始まること。ゲームのルールや設定それ自体が別のゲームの道具として「流用」されること。これらはゲームが遊ばれるときには常に生じることであり、デジタルゲームもその例外ではない。

(中略)

さらにこの文脈で参照できるのは、ジェームス・ニューマンが説いた「ゲームを遊ぶ」と「ゲームで遊ぶ」の概念的区別である。彼は『ビデオゲームで遊ぶ』(2008年,未邦訳)で「ゲームを遊ぶ(play games)」と「ゲームで遊ぶ(play with games)」を区別し、後者を「単にゲームを遊ぶことをこえてゲームを使うこと」と定義した。彼は「ゲームで遊ぶ」という視点に立って「ゲームプレイをとり囲み支える高度な生産的活動の拡がりや、ビデオゲームを改造、変形、翻案、意味付け、理解することの予期できない創造的作用を可視化する」ことに成功した。彼がそこで考察したインターネット上の攻略サイトや質問サイト、プレイ実況動画の配信や閲覧、チート行為やコピー行為は、「ゲームを遊ぶ」ことに劣らぬ重要性をもつのだ。


👼なるほど、面白いです。さきほどのミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』の文章に照らして考えてみると、プレイ実況動画は本来なら不可視であるはずだった消費者側による創造が映像になって残っているんだ、と考えてみることもできそうですね。


♨️そして、そんな「ゲームで遊ぶ(play with games)」のひとつの例としてとりわけユニークなのが「温泉マークのオートチューン実況」です。

t.co


👼清々しいまでの我田引水ですね。


♨️ではつぎの動画をご覧ください。


👼ドンキーコング2でパニックになっている実況の声にオートチューンがかかりまくって音楽のようになっていますが...


♨️そう、つまり温泉マークのオートチューン実況にはゲームプレイ自体とは別に実況の声にオートチューンをかけることによってただのリアクションが音楽的になってしまうという面白さがあるんです。


👼ドンキーコング2というゲームを流用して別の遊びをしているんだ、と。というか、オートチューンだって本来ボーカルのピッチのズレを補正するための音楽ソフトなので、そっちも流用ですよね。

dic.nicovideo.jp


♨️これはまさに「ゲームで遊ぶ」の典型例のひとつだといえますよね。さあ読者のみんな、チャンネル登録をお願いします!


👼ここぞとばかりに宣伝を......


 
 
 
ksym『NKODICEが軽く炎上した件(前編)』

♨️続けて「ゲームで遊ぶ(play with games)」の例として紹介したいのがこちらの記事です。

note.com


👼ksym『NKODICEが軽く炎上した件(前編)』ですね。『NKODICE』というゲームのVTuberによる二次創作を巡った炎上について、経緯と作者本人の想いがまとめられています。「ゲームで遊ぶ(play with games)」ということがいかにゲーム開発者を傷つける危険を孕んでいるかがよくわかる例になっていますね。


♨️これのやばいところって、ゲーム開発者による一次創作とそれを基にしたVTuberによる二次創作の力関係が逆転しちゃってるところだと思います。『日常的実践のポイエティーク』では、ある対象の消費者は常に「他から押しつけられた土地のうえでなんとかやっていかざるをえない」弱者として描かれていました。しかし、いまや二次創作という力を手に入れた消費者は、一次創作である製作者側よりも力をもっている場合がある。


👼それでいったら星野源「#うちで踊ろう」に安倍晋三が文脈をまったく無視して政治利用のためだけにコラボ(?)してきた事件も思い出しますよね。


♨️これ、本当にすごい嫌だったでしょうね....。この「#うちで踊ろう」の一件があったからこそ冒頭の星野源『創造』の歌詞がああいった内容になったところも、もしかしたらあるのかもしれません。

画像


 

 

 

大和田俊之『テクノロジーとアメリカ音楽』


♨️で、ここまでのトピックを踏まえたうえで紹介したいのがこちらの書籍です。

artespublishing.com


👼大和田俊之(編)『ポップ・ミュージックを語る10の視点』ですね。タイトル通り現在のポップ・ミュージックについて色んなすごい人が色んな視点から語っているすごい本です。


♨️今回取り上げたいのは、そのなかでも大和田俊之『テクノロジーとアメリカ音楽 アフロフューチャリズム、ゲーム音楽、YMO』(p.11~p.33)です。こちらの文章では、音楽と「機械(テクノロジー)」の関係性に着目しながら、最終的には黒人やアジア人を含む「アフロ=アジア文化圏には共通する音楽的志向性があるのではないか」(p.26)という仮説を提示しています。


👼温泉マークさんといえば「オートチューン」ですが、この文章の冒頭でもオートチューンのことが取り上げられていますね。T-Pain『Chopped N Screwed Feat. Ludacris』、Lil Wayne『Lollipop』、Kanye West 『808s & Heartbreak』と、2008年ごろにアメリカでオートチューンを使用した楽曲が流行っていたことを示しながら、逆に直球のオートチューンディス曲Jay-Z『D.O.A. (Death of Auto-Tune)』がリリースされるなど激しいバッシングの声もあったことが言及されています。ここらへんのトピックはNetflixのシリーズで最近(2021年)配信された『This is Pop:ポップスの進化』というドキュメンタリー番組のオートチューン回でも言及されていましたね。

www.netflix.com


♨️そういったバッシングがあることについて、大和田はつぎのように分析しています。(p.18)

歌手はプロフェッショナルとして自らの身体、声を駆使して上手に歌わなくてはならないという規範意識がアメリカには強くあるように思えます。

そうした風潮のなかで、オートチューンのような機械を使った表現は、歌手=歌うプロが「ずるをしている」「ごまかしている」とみなされる。


👼機械に頼らず歌いあげてこそ一人前ということですね。


♨️そして、大和田はこの流れを受けて、アフロフューチャリズムや日本のゲーム音楽について取り上げつつ、アフロ=アジアの音楽におけるテクノロジー表象との強い親和性を指摘しています。(p.27~p.29)

もし西洋近代が「人間」という強固な概念を生み出し、黒人やアジア人がその周縁に位置するとすれば、そのマージナルなアフロ=アジア文化圏の人たちはテクノロジーに対してよりヴァルネラブル(vulnerable)な側面を持つといえるのではないかと思います。ヴァルネラブルとは「脆い、傷つきやすい」という意味ですが、「人間」という強固な概念がヨーロッパほどには浸透していないので、アフロ=アジア圏における「人間」はテクノロジーの影響を受けやすいのだと。これはもちろんネガティブな意味だけではありません。

(中略)

90年代にはテクノ・オリエンタリズムという言葉も現れましたが、それはYMOのパフォーマンスにこそ適用できる概念であることはいうまでもありません。無表情な日本人がステージ上でクリック音にあわせてドラムを叩いている姿は、いわば「機械に隷従する人間」のイメージを過不足なく表しているといえるでしょう。

(中略)

抑圧の構造を所与のものとして受け入れた上で、その抑圧の一端を担うテクノロジーに精通することで抑圧者に一矢報いる機会を虎視眈々とうかがう。これはまぎれもなく敗者/被抑圧者の戦略であり、ここから一定の表現の形式と美学が生まれるといえるでしょう。


👼「人間」という強固な概念をもつ西洋近代と、抑圧の構造を受け入れた上で抑圧者に一矢報いる機会をうかがうアフロ=アジア圏の対比。わりとそのまま『日常的実践のポイエティーク』における「戦略」と「戦術」の対比に置き替えられる気がしますね。


♨️生歌が戦略ならオートチューンは戦術なんですよ。というかヒップホップという音楽ジャンル自体がそうですよね。『This is Pop:ポップスの進化』のオートチューン回でミュージシャン・作家として紹介されているJACE CLAYTONもつぎのような指摘をしていました。

電子音楽は装置の誤った使い方により進化した

DJはターンテーブルを別の方法で使い

おもしろい効果やパフォーマンスを生んだ

オートチューンも本来の使い方をやめた時

創造性の種に


👼たしかにヒップホップって「ブレイクビーツ」の発明を考えれば「ゲームで遊ぶ(play with games)」ように「音楽で遊ぶ(play with music)」ことで生まれたジャンルですもんね。

block.fm


 

 

 

おわりに


♨️で、ここまで話してきたうえでもう一度ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』を振り返りたいんですけど、あれが前提としていたものって押しつけられた秩序(一次創作)と消費者の対比であって、消費者側の創造は不可視のものとされていたわけじゃないですか。でもいまって状況が全然変わっていて、それは広く一般に「二次創作」という形で世の中に溢れているんじゃないかと思うんです。


👼本来消費とみなされていたようなものが二次創作に取って代わられる社会がきているということですね。#うちで踊ろうやNKODICE事件にもあったように、そういった状況で作者個人の権利がどう守られるべきかという問題にもつながってきそうな指摘です。


♨️だからこそ、まずは「二次創作」のような独創にちゃんと向き合うこと。オリジナリティという色眼鏡を外して、そこで本当に起こっていること、オリジナリティなき創造に目を向けることが大事なんじゃないかとぼくは思います。


👼じゃあまあ今日はこんなところですかね。えー、では最後に、プレイステーション用レースゲーム『R4 RIDGE RACER TYPE 4』のサントラ曲『Move Me』がサンプリングされていることでおなじみの、JPEGMAFIA『BALD!』を聴いてお別れしましょう。みなさん、ここまで読んでいただきありがとうございました!

youtu.be


👼♨️YUKEMURI LAB、次回もお楽しみに......